Satoブログ
快感・・・
今日は7月最終日、私的には信じられないことですがちょうど50歳になる節目となります。20歳代のころは50歳など想像もつかない“終末期”のイメージしかありませんでしたから、ただただビックリ!なのであります。30歳代を迎えたとき、40歳を越したとき、それぞれの世代感覚ってありましたが、50歳になってもますます惑わされている自分に 「待てよ、まだ若いってことか?」 などとつぶやいてみたりするわけです。
サムエル・ウルマンの詩に「青春」という詩がありますよね、“青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方をいう・・・”で始まるあの詩です。昔は言ってる意味がよくわかりませんでした。老人よ大志をいだけ!という励ましの言葉なのかなぁという感じで。でもいまはハッキリと自分でも感じます。青春という言葉が=若く元気な時代。人生の春にたとえられる時期。を指す言葉であれば、たしかに年齢が問題なのではなく、それぞれの気持ちの持ちようであるということが。
たぶん私の精神年齢は幼いままですが、しかし仕事などに対する姿勢や気持ちは以前よりもずっと充実している気がします。考えが変わると行動が変わり、行動が変わると習慣が変わり、習慣が変わると人生が変わるなんていいますが、たしかにそれぞれの気持ちの置き方一つで、自分なりに成長することはできるのだと思います。
7月1日からある決意をもとに近所のスポーツクラブに通い始めました。自慢じゃないですが、過去三度ほどジムに加入しトータル3年以上会費を納めながら、実際に足を運んだのは10日にも満たないという恥ずべき実績があるにもかかわらずです。ところが今回はちょっと違いますよ、まだ一ヶ月ですが過去の合計訪問数を突破して、7月は二日に1回以上は足を向けているんです。
運動をすることはホントに嫌い(正確にはメンドウという感覚です)でしたが、今月じっさいにやってみたところ次のような変化がありました。 ●1回あたり2時間~3時間動くことが苦痛でなくなりました。というより、気持ちよくなりました。 ●はじめのうちは1回おわると、ハァハァゼイゼイでしたが最近はそれもなくなりました。 ●終了後事務所に戻って仕事しても集中力に欠けましたが、今は終了後すぐにフル回転で仕事にモードチェンジできます。 ●汗を流さないと落ち着かない気分すら味わえるようになりました。
日中や夕方早いうち(ジムが混んでないとき)に行くため、早朝出社で仕事する機会が増えました。今朝も6時過ぎにはパソコンを立ち上げ資料チェックなどしてたわけです。また、もともと飲みに出ること自体少なかったのですが、ジム通いに比例してほぼ出ることがなくなりました。お酒飲むより汗流したほうが気持ちよいからです。
今日50歳になりました。気分的には30歳になったときよりも、もっと若々しさを自分で感じていたりもします。考え次第で自分を変えられる!ということを念頭に、今日からまたさらに若返りを目指します。
戦い終わって・・・
昨日は3年に一度の参議院選挙でした。毎回のことですが、投票締め切り後の選挙特番が好きで、そのため翌日朝はなかなかつらいものがあります。最近の選挙では出口調査の精度があがってきているためか、各社が帳票締め切り直後の時間(20:00)に発表する予想は、かなりいい線を示すんですね。昨夜もNHKから民放各局までいっせいに予想を出しましたが、ほぼ正確な数字を発表していた局もありました。
結果はご存知の通りで、投票率こそ予想されたほど高くはならなかったものの、終盤の新聞予想に近い激変の結果がでました。まぁ結果についてコメントすることはないのですすが、投票者の“狙いや意思”をわずかなヒントから推測したり想像したりすることは、けっこう面白いものです。
成長するためには変化が必要である!ことはどんなことにでも言えることです。多くの知識を得たいなら、晩酌の楽しみを削って時間を振り分けます。ダイエットしたいなら、好きな食べ物を抑えて運動にも励まねばなりません。自分を魅力ある人間に磨きたいなら、すくなくても今までと同じことをやっていては実現不可能です。 この例えはすべて自分への自戒ですが、成長するために変化が必要と思ってはいながら、変化することへの抵抗があって結局成長できないことって意外に多いものです。
人間の基本的な弱さなんでしょうね、慣行とか慣例って楽なんです、考える必要がないからです。いままでと同じって居心地がいいものです、要領やコツをマスターしてますから。ゆえに、成長したいという欲求よりも、変わるのが面倒という安直さが勝ってそのままズルズル・・・というのが、私などナマケモノの典型的パターンなのです。
昨日はどうだったんでしょうね、与党が大敗すれば景気に冷や水がかかるかもしれない・株価に影響があるかもしれない・安定基盤にヒビがあいるかもしれない・・・という懸念を踏まえても、有権者が変化を望んだのだとすると民意もなかなか勇気のあるトライを選択したのかしら?なんて想像もします。
願わくば昨日の変化が、確実な成長に結びつかんことを。
公平な格差?
日本経団連の夏季フォーラムで御手洗冨士夫会長(キヤノン会長)は、採用の改革について 「平等に採用して会社では年功序列。競争の原理からほど遠く、イノベーション(革新)は生まれない。社会正義を平等から公平に変え、それに沿った学校教育、採用試験、給料体系にしないといけない」 と、入社から給料に格差をつける仕組みの導入を提案したようです。
しかしこれは公正な制度になるのでしょうか?学校の成績が良い事と仕事で優れた成果を残すことは違います。 成績が良いということは学習能力や記憶能力・バイタリティに優れていると捉えて、採用時の判断に使うことは正しいと思います。勉強を一生懸命頑張れた人間は、仕事でも一生懸命頑張れるかもしれません。学習で見事な記憶力を発揮した人間は、仕事の場でも同じように能力を発揮するかもしれないからです。
しかし、給料はその社員の将来に投資するお金ではなく、仕事に実績に支給される労働対価ではないでしょうか。学生時代の能力をそのまま仕事に生かせばきちんと評価すれば良いし、そうでなければ同様に扱う必要もないはずです。学校の成績と仕事の成績は必ずしも連動するとは限らないことも多いものです。
この発言の奥には、「だから教育制度を変えて産業界に優秀な人材を輩出しやすくすべきだ!」という意図が見え隠れしているように感じます。教育の本質はそこにあるのでしょうか?優秀な(何をもって優秀とするかは疑問ですが)社会人=労働者を作り上げることを教育と結びつけることがほんとに大事なのでしょうか?
私は、社会人(仕事人)としての基礎を作ることが大事なのではなく、人間としての基礎を作ることのほうがはるかに大事なことだと思います。人を思いやる気持ちを身につけたり、お金の使い方や消費の仕組みを学んだり、対人コミュニケーション(特に伝えることと聴くこと)の基礎技術を身につけたり・・・そんなことを学んだ人間が増えていったとき、この国の将来はもっと明るくなるように思えて仕方ありません。
テレビでも新聞でも毎日のように殺伐としたニュースを目にするようになりました。やっぱり何かが歪んでいるのだろうとも思います。そうした歪みの根底には、人間としての大事な素養が関係しているようにも思います。
成績に連動させて初任給を決めるなどと聞くと、あらぬ方向まで妄想してしまったりするわけです。
![有限会社エフピーサポート[FPSupport] 有限会社エフピーサポート[FPSupport]](http://www.21fps.com/img/logo.gif)